障害を考える
2021年夏の東京パラリンピックを観戦した時の感想です。
「障害は1つの個性」という言葉が現れてきてどれくらいになるのか。「障害」「障がい」、表現する言葉にも少し違和感を感じるようになったのは時代の流れだろうか。英語ではhandycapという言い方からdisabilityとかimpairmentという表現へと変わりつつあるようで、確かにその方がしっくりくるような気がする。
僕らが子供の頃には障害者は極力表に出てこさせないような流れができていた。障害を持つ家族を座敷牢に閉じ込めて表に出さない、そういうことが本当にあった。また、逆にまだ戦争で手足を失った傷痍軍人が街中の家々を訪ねて寄進を求めてくる姿を多く目にした時代でもあった。
障害とは何なんだろう。
人は自分の姿形は、鏡を通して以外には認識できない。自分の見た目が他人と違っているということは本当はわからないものなのだ。でも自分の周りにいる多くの他人の姿形はよく認識できる。そこに一定の標準を求めるのは自然の流れだと思う。その標準(見た目ですが)から大きく逸脱している個体が目の前に現れた場合、そのことを知らない場合、適応できないのは当然のことで否定的な反応が出てくるのは当たり前。自分が幼い頃、頭が無い、足が無い、片腕が無いデパートのマネキンを目にする度に胸の中がザワっとして落ち着かなかった。生きてる人間でも同じで、目に見える身体的欠損がある方が突然視界の中に入ってくると、やはり最初は同じ感覚を持ちドキッとすることは自然な反応であり、それを無理矢理抑え込む必要は無いと思う。自分も含め周りの殆どが障害者であればそういう反応は生まれないのだろうが。でも現実には15%、実社会に溶け込んでいる障害者の数はもっと少ないかもしれない。でも15%もいるとも言える。
自然界、動物の世界では障害を持った個体は生きていく力が欠けているために集団から弾かれて淘汰されていく。人はどうだろう。昔、障害は恥ずべきもの、隠されるべきものと捉えられていた。でも人には「心」があり、人は頭で「考えて」行動する点で他の動物と全く異なる。長い時間と多くの苦難を乗り越えて「障害者」への考えが変遷してきている。即ち、障害者(他)を認めて共生していくという形へ移り変わってきている。最初に障害者に接して感じた違和感を人は心と思考と時間で受け入れていく能力があると信じる。知り合いになり、友達になれば、それこそ障害はその人の一つの個性でしかなくなるのだと思う。
個性、人はそれぞれ違うんだということは、今頻繁に言われている多様性という意味で、とても大事なことだと思う。想像してみてください。世界中の周りの人々が全て自分と同じ顔形をしていたら、同じ考え方をしていたら。何のトラブルも起こらない静かな世界なんだろうけど、こんなにぞっとする薄気味悪い世界はない。
人は他人と違っているから自分の位置が良くわかるのだ。自分の至らなさ、是正すべき事もわかるし、他者への優しさも生まれてくる。逆に他人と違っているから生じる、憎しみ、嫌悪、などのネガティブな感情も沸いてくるが、それをコントロールして昇華することができるのも人の持つ能力だ。健常者でも障害者でも人々には必ず「差」はあり、違いはあるが、そこに「差別」があってはならないという事なんだと思う。
今回のパラリンピックを見ていて、僕ら健常者(健常者でも誰しも何等かの目に見えないdefect、disability、impairmentを持っていると僕は思う)は15%の障害者を知る、目にする機会をもっともっと持つといいと感じた。障害者に慣れることにより、最初に出会う時の拒否反応も無くなり、また過度に介入してしまうことも無くなる。要は、健常者、障害者が何の気兼ねもなく(勿論、障害のある方のdisabilityには適正に対応して)混ざり合って、普通に接して普通に生きて行ける世の中になってしまえばいいんだと思う。そのためには障害者はもっと表に出てきて15%もいるんだということを健常者にわからせる必要があるのかもしれない。表に出るためには色んな障壁を一つずつ取り除いていかないといけないんだけど。そういう世界が近い将来やってくることを夢見て。(いいことばかりでは無いのは承知しつつ)